シルクロード50周年記念対談『インタビュー with プロフェショナルズ』②
有限会社 カワイ製作所
創業者・相談役 川居清隆さま
司会
カワイ製作所の新工場竣工、あらためてお祝い申し上げます!
そんなおめでたいことが当社50周年と重なったことも嬉しく思います。
川居相談役
小河会長とのご縁もまさに50年だね。
~ 起業前夜 ~
司会
川居相談役が当社OBと知った時はずいぶん驚かされたものです。
早速ですが、カワイ製作所を立ち上げ前の職歴から教えてください。
川居相談役
社会人になって初めての勤め先はクルマ用品卸売り営業マン。
主な仕事は地元奈良県内のガソリンスタンドまわり。
その後、もっと広い世界が見たくなってシルクロード営業マンに転職。
司会
広い世界?
川居相談役
奈良県内に縛られず全国の見聞を広めたかった。
クルマ好きだったから各地有名ショップの社長さんたちとも会ってみたかったし。
営業マンなら会社の経費で行けるし『泊り』というのが魅力的(笑)。
司会
『泊り』は営業マンにとってのパワーワード(笑)。
そして私も営業職を通じて全国津々浦々回らせてもらいました。
川居相談役
二十歳そこそこの若者が自費で簡単にできることではないね。
仕事を通じてさまざまな人、会社、風土を知ることができた貴重な体験だった。
司会
シルクロードのことはどうやってお知りになったのですか?
川居相談役
在籍していた会社に小河会長が納品に来てたんだよ、ほぼ毎朝。
その都度「お~い川居、コーヒー行くぞー」って橿原観光ホテル隣の喫茶店に連れ出し。
毎回 「シルクロードは俺一人だから大変」と愚痴ってたからチャンスだと思って志願した。
今思えばヘッドハンティングだったかも。
司会
会長は「川居がおしかけて来た」って言ってました(笑)。
川居相談役
お互い50年前の話(笑)。
シルクロード営業は帰宅時間が遅いし出張も多いのでアパートは勿体なくて解約。
そのまま小河会長の奥さんの実家に居候。
米と生みたて卵の販売会社で、鶏小屋の向かいの部屋に寝泊まり。
2歳だったあなた(司会)をおんぶしたおばあちゃんが、炊き立てご飯に生みたて卵をのせてくれていたのが絶品だった。
司会
川居さんの記憶はありませんが、鶏小屋の匂いが臭かったことは覚えています(笑)。
~ シルクロードでの日々 ~
川居相談役
忙しくも充実した毎日だった。
グリーンフェリーで南港から広島に上陸、岡山や姫路を営業しながら大阪に戻るルート。
夜8時にクルマごと乗船し朝6時に現地着。
コンビニも無い時代で、7時オープンの喫茶店を探しまくりコーヒー片手に地図を確認。
司会
現代の営業活動ではネット、スマホ、カーナビ、GOOGLE MAP、コンビニ、24時間レストランが当たり前。“地図を広げて”なんて考えられない!
川居相談役
取引先ショップに到着すれば、待ち構えていた社長や店員が山賊のように襲ってきて、勝手にリアハッチを開けて根こそぎ商品を持って行く。
商品が無くなってしまうと次の取引先に行けなくなるから必死で抵抗。
商品を売ることよりも隠すことに必死だった時代だね(笑)。
司会
ネットや通販が無く実店舗販売の時代、良い商品を確保するのが店にとっては重要事項。
気も右肩上がりでアフタパーツの需要が急増していたんですね、羨ましい。
川居相談役
営業先にはお気に入りの宿と食事があって、出張が楽しみで仕方なかった。
岡山から姫路まで戻ったら今度は関西で大阪、京都、和歌山を営業。
荷物が空っぽになったらしばらくは仕入れ先を回って商品をかき集める。
営業車が満載になったらまたフェリーで出張。
~ 『モノ売り』ではなく『モノづくり』がしたい ~
司会
ここまでのお話だと退社される要素がありませんね。
川居相談役
仕事に不満はなかったけれど、入社時からモノづくりで独立する前提だと伝えていた。
だからシルクロードではしっかり見聞を広め『販売』の勉強をさせてもらった。
そして、自分が販売よりも『モノづくり』がしたかったことを確認することもできた。
司会
ということは、以前から製造業の勉強や経験を積まれていたのですか?
川居相談役
兄貴が鉄工所勤めだったから、そこでアルバイトをさせてもらっていたね。
司会
シルクロード退社後、初めて作った製品は何ですか?
川居相談役
ヤンキーホーンのタンク。
小河会長にもたくさん売ってもらったカワイ製作所の原点といえる商品。
司会
けれど、カワイ製作所といえば『補強パーツ』や『シートレール』ですよね?
川居相談役
いきなりそこにたどり着いたわけじゃない。
ラリー、ダートラが好きだったから、KYBショックアブソーバーとCIBIEのライトが欲しくてある問屋さんの門を叩いた。
お付き合いが発展して、モノづくり会社だと知った担当Sさんから呼び出し。
ジャパン(C210)のオルガンペダルをスポーティーな吊り下げ式にしたいという相談。
開発したら信用してもらえ、タワーバーの相談が来た。
司会
いよいよカワイ製作所の主力商品である、タワーバーの登場ですね。
~ 調整式タワーバーを生み出せ ~
川居相談役
タワーバーといえば当時はホンモノ競技車両専用の特殊パーツ扱いで、たいして売れていない商品だった。
丸パイプに穴をあけ、ガス溶断機でフランジやステーを手切りし、兄貴に旋盤できれいにしてもらってから溶接して塗装で仕上げ。
全部手作りで大変だったけど、そんなに売れるものではないのでなんとか対応していた程度。
司会
ダッシュ貫通のガチなロールケージを装着するようなイメージの商品だったんですね。
川居相談役
ところがSさんは、タワーバーをジャパン用に作ればたくさん売れると言い出した。
半信半疑で開発したらこれが大ヒット!
司会
チューニング黎明期アルアルですね!
川居相談役
そんな甘い話でもない。
当時のタワーバーは完全固定式のリジッドタイプ。事故車はもちろんメーカーの製造個体差のせいで装着できない車両には頭を抱えた。
ほんの僅かなズレがあるだけで装着できない。
兄貴に相談したらバーの両端部をネジにして長さを調整式にするよう提案された。
司会
え!?
調整式タワーバーの基本形はごカワイ製作所がパイオニア!?
川居相談役
さっきも話したように、当時は競技用の固定式しかなかった。
だからストリート用に調整式を量産開発したのはウチになるだろうね。
調整式にするって言ったって、誰もやったことないんだから大変だった。
名称もわからず先端に穴の開いたボルトを探していると、それがデンデンボルトだと知る。
バーの両端に、見つけたデンデンボルトが入るようにネジ溝を切って装着。ところが、左右同じネジ方向だとバーを回しても長さはずっと一定のまま。
逆方向に回る左ネジをイチから作る方法を悩んでいたら市販されていることを知った。
司会
今ならスマホ検索ですぐに見つけられます。
でも50年近く昔だとネットが無く、必要なものを探すのが大変だったんですね。
川居相談役
試行錯誤した甲斐あって全長調整式タワーバーは大ヒット。
ところが、ジャパンの触媒ストレートも需要が急増して製造がパンク状態。
そんな状況でSさんは、納品数量を増やしてほしいと言い出した。
効率アップにプレス機を購入してくれたけど専売を約束させられ毎月2000本納品。
司会
信頼してもらえるからこそですね。
吊り下げペダルに始まり、タワーバーに触媒ストレート。ヤンキーホーンも含めるとかなりの取引額になっているわけですよね。
川居相談役
それを手放しでは喜べず疑問を持ち始めたんだよ。
息苦しいというか、独自性が無いというか、「このままでいいんだろうか?」って。
そんな状況で、Sさんから今度はシートレールの相談。
司会
いよいよカワイ製作所の看板商品の開発秘話ですね。
~ 車種別専用シートレールを生み出せ ~
川居相談役
当時バケットシートはオートルック製しかなく、取り付けは純正レールを改造。
TRD製はTE27の純正レールにそのまま装着できるように設計されていて、大人気だったけれど着座位置が高いことが気になっていた。
Sさんの依頼は、オートルック製をボルトオンできるKP61用シートレール。
一番の問題は、メイン材料であるスライドレールが市販されていないこと。
入手は解体車から外してくるしかなく、10台分集めるだけで気が遠くなる作業だった。
司会
そもそも、車種別シートレールが存在しない時代があったことにビックリ!
川居相談役
当時、シート交換が必要なのは競技車両くらいでストリート用は想定していなかった。
車種別シートレールはストリート用での需要と将来性は見込めたものの、解体屋から材料を集め続けるのは現実的ではない。
かといって、日本の純正メーカー系列がスライド部分だけを販売してくれそうにない。
司会
色んな事情で国内自動車メーカーの下請けと呼ばれる工場は融通が利きづらいですからね。
川居相談役
海外純正メーカーを狙ったけど100台や200台分では門前払い。
今でこそ千や万の数量なんて怖くない市場だけど、当時ミニマムオーダー1,000台を提示されたときは“終わった”と思った。
Sさんの社長に掛け合ったものの「予定販売量は?」と聞かれギブアップ。
ところが当の本人は「半年で投資額を回収する、できなかったら弁償する」と宣言。
お世話になってきたSさんと心中覚悟で取り組む決断をしたよ。
司会
新商品開発には必ず付きまとう生みの苦しみですね。
売れるかどうか、ましてやどれだけ売れるかわかっているなら僕も苦労しません(苦笑)。
川居相談役
1,000台を気合で売るのではなく、どうすればリスク軽減できるかを考えた。
売れる可能性が高い車種から開発し、同じ製品で複数車種に装着できるようにした。
そして、ライバル商品の弱点であった着座位置を大幅に低くするだけでなく調整式にした。
司会
「新商品だから売れなくても仕方ない」ではなく、売れる確率を少しでも引き上げる努力を怠らなかったということですね。
個人的に大変勉強になりました。
川居相談役
それだけじゃない、レールをたくさん売るためにバケットシートも作ることにした。
某有名ブランドは競技用としてオリジナルシートと専用レールを販売していたけれど、大卒の初任給が7~8万円だった時代にセットで20万円!
左右で40万円という完全なレース用。だからこそ、シートとレールをセットにして5万円で販売できれば新たな市場が生まれると直感。
とはいえ、当時オリジナルシートを作る工場なんてなかったので、FRP製の浴槽を作っていた会社に直談判し無理やり作ってもらった。
完成したFRPシェルに生地を縫製してくれるところを探すのも大変だったなぁ。
司会
まさにチューニング創成期。
今当たり前にあるパーツが無いところから始まるんですね。
川居相談役
大変だったよ。
海外の工場との取引は一度の商談で決まったわけではない。
相手にしてもらえるようになるまでだけで3~4回訪問し、そこから商談の仕上げに数回。
当時のエアチケットは1回3~40万円。
投資してもらっている立場からすれば、失敗するわけにはいかないという緊張感。
司会
結局Sさんは弁償することになったのですか?
川居相談役
残念ながらシートレールは発売と同時に大ヒットとはならなかった。
人気だったトヨタ車はTRD製が強かったので、ランサーなどの車種だけしか売れなかった。
けれど売れ行きは日に日に伸びていたので、将来性を見込んでSさんは不問になった。
とはいえ、それじゃ面白くないので販売と並行して色んな改良を進めた。
結果、爆発ヒットを生み出すことになったのが、バケットシート横どめタイプの設定。
当時のバケットシートはみんな座面が高かったのは底どめだったから。
これを誰もが当たり前に思っていたけれど、「取り付け穴が横なら座面は下がる」と思い実行。
幸いシートは開発段階から関わっていたので、FRPシェルの中に入れたスチールプレートにネジ穴を切っていることを知っていた。
その強度は側面に入れても十分な強度を持つことも。
司会
今じゃ世の中のほとんどのフルバケが横どめ式ですが、これも生みの親だったのですね。
川居相談役
売ることと責任を果たすことに必死だっただけだよ。
いずれ誰かが気づいただろうし。
とにかく「着座位置が低い」と評判となり、大役が果たせたとことにホッとしたよ。
~ カワイ製作所の誕生 ~
司会
順風満帆ですね。
川居相談役
Sさんの会社からホーン、吊り下げペダル、触媒ストレート、タワーバー、シートレールの大量注文をこなす日々が続いていた。
ところがある日、久しぶりに他社からの注文を対応して愕然とした。
利益率がSさんの注文とは全然違う。
確かに注文は一定量を約束されているし、材料と機械面でのサポートも貰っている。
けれど1カ月ひたすら働いても人を雇う余力すらない。この関係が続けば続くほど親分と子分の関係になってしまう。
一大決心し「納品価格を上げさせてください」と伝えた。
司会
商売をしていれば確実なオーダーは最も手放したくないモノ。
多少苦しくても、目をつぶってしまいたいほどのモノを手ばなす怖さはなかったのですか?
川居相談役
Sさんが理解してくれたのが救いだった。
「わかった、でも売れるスピードは落ちる可能性が高いことは覚悟してほしい」と。
今なら自信をもって言える。
商品やサービスは、やみくもに安売りするものではない。
ゆっくりでいいから確実に売ることが大切だと。
そして、世の中にない魅力あるものを作り続けることが大切だと。
司会
これはいつのことですか?
川居相談役
45年前。
この日をもって正式に「有限会社カワイ製作所」を立ち上げた。
他社に頼って、すがっての経営をするのではない。
独自性を持った会社であろうと決意した。
幸い、Sさんからの注文も順調なままで社員も雇うことができるようになった。
取引先も増やすことができ、20年あまり会社は順調に成長し続けたね。
~ 試 練 ~
司会
シルクロード入社時がちょうどその順調な時期で、ご挨拶に行かせてもらいました。
そして数年後に、大変な状況に陥られたことも覚えています。
川居相談役
今思えば、あの頃はまだまだ若かったし甘かった。
Sさん所属のあの大きな会社が倒産することはまったく想像できなかった。
倒産発表の数日前に、社長が大阪第1ビル最上階のレストランに招待してくれたんだよ。
「川居君、いつも良く頑張ってくれているね、今日は好きなものオーダーしたまえ」
最高のロケーションに最高のステーキ、良くここまでやってこれたと感激。
そんな天国はあっという間に終わり、地獄が待っていた。
司会
痛みと衝撃は不意打ちだと倍増しますね・・・。
川居相談役
数千万の未払いが発生したことによるダメージを頭の中でシミュレーションしてみた。
商品を作るための材料の支払いができない・・・。
商品が作れないから収入が絶たれてしまう・・・。
これにより、すべての取引先への信頼が失われる・・・。
おカネが工面できたとしても、一番の大口顧客であったSさんの会社は無い。
しかも、当時主力商品となっていたシートレールの材料供給はSさんの会社。
司会
絶望的としか言えないですね・・・。
川居相談役
妻と家族に相談し、どれだけのおカネを用意できるか確認。
その上で、社員に事情を説明して廃業を提案した。
ところがみんなが反対してくれて、「どうにかしよう」と言ってくれた。
これが一番大きかった。
そして、小河会長にも心配してもらい「できることはする」と言ってもらえた。
ここで相当に冷静になれた。
代表というのは孤独な仕事だけど、人に支えてもらっているとも実感できた瞬間だった。
司会
私自身が同じ状況に陥ったら、同じことを言ってもらえただろうか、と自問してしまいました・・・。
川居相談役
結果的に皆様の支えと運の良さで、誰にも迷惑かけずに会社運営を続けられた。
けれどこの経験で再認識したのは、特定の会社に頼り切らないこと。
そして、危機は突然やってくる可能性があるという前提で普段から準備をしておくこと。
この事件でシルクロードさんが早い段階で新規の掛け売り口座を廃止し、現金取引を選択したのはさすが小河会長だと思わされたね。
司会
当時は掛け売りが当たり前の時代だったので、現金取引の説明をするとあちこちでお叱りを受けて大変でした。
川居相談役
おかしな話だよ。
銀行が保証金も担保も無しに、いきなりお金を貸してくれない。
通常の掛け売りの『末締めの翌月末支払い』というのは最大2か月間、おカネをもらえないのにこちらは先にモノを渡さないといけない。
おカネを先に貸している状態にあるのに集金を遅らせたり、手数料を引いたり、集金に行ったらいなくなっていたり、なんてことが起こるのは許せない。
当社も安易な新規口座の開設はやらなくなったね。
~ 思い出のクルマ ~
司会
ここで話題が変わりますが、今まで乗ってきて一番好きだったクルマを教えてください。
川居相談役
マツダ・ポーター!
司会
知らないです(汗)。
川居相談役
僕が初めて買った会社のクルマだから相当昔のこと(笑)。
会社が軌道に乗って資金に余裕がでるまでは、社用車を買うのは我慢していたんだよ。
ある日、マツダの営業マンが遊びに来たときに「売れ残りの新車が40万円であるよ」と言われて飛びついた。
司会
軽トラックは材料仕入れや納品で大活躍しますよね。
川居相談役
もちろん仕事はとてもラクになった。
それ以上に自分の商品が売れたおカネで買えたという嬉しさ!
初のクルマは絶対に新車と決めていたし。
オモチャみたいで楽しいクルマだったので、ロールバーを作って遊んでいたら「売ってくれ」といわれて量産したらこれまた大ヒット(笑)
~ これからのモノづくり ~
司会
それでは最後に、アフターパーツ業界の今後の見通しをお願いします。
川居相談役
色々言われているけれどEVの躍進は確実に来ると思う。
ただEVがもてはやされたことでその問題点がクローズアップされ、逆にガソリン車やハイブリッド車が持つ利便性の理解度も上がったと。
並売される時期が長く続くと思うね。
そんな状況だからこそ、魅力ある新商品や新サービス開発することが重要。
海外で販売されているものを安く仕入れ、日本で売りさばくだけの商品は長く売れない。
司会
けれど人気商品って、海外ですぐコピーされてしまいます。
悲しいけれど国内でも同様の事例も起きています。
川居相談役
一生懸命作った商品がコピーされるのは腹立たしいこと。
でも、それくらい魅力的な商品を作り続ける気概が必要。
新工場を設計するときに一番気を使ったのが、新商品を生み出すための開発室。
カワイ製作所も新商品をどんどん作っていきますよ!
司会
では、開発して欲しいものが5点ほど(笑)。
川居相談役
かんべんしてよ、引っ越ししたばっかりで、バックオーダーに追われてるんや!(笑)。
有限会社 カワイ製作所
創業者・相談役 川居清隆 様
この度は、弊社50周年記念対談『インタビュー with プロフェショナルズ』にご協力いただきありがとうございました。
これからも変わらぬご愛顧を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
2025年1月吉日
株式会社シルクロード 小河 潤